見失った矢印は、、


バスクより戻って数週間が経ちました。
写真を見ても数ヶ月前の事のように感じてしまいます。
出会った人々、街ですれ違っただけの多くの人々までもが
私達の国を心配してくれていました。



最後のディナーで出会ったサーファーが仏教や宗教の話しをしてくれました。
未曾有の事態に立ち向かわなければならない私達を心配してくれての事。
海外の方とこの手の話をするのは迷路にはまる場合が多いので
話を深くする前に、
「日本の歴史にしろ、宗教にせよ、自分の国の事であるにも関わらず
そのことに大変無知な自分をいつも恥じています、、」と話します。
そして、日本人には古来”お天道様は見てますよ”という気持ちがあります。。
って事を話そうと思いましたが、、、
私のつたない英語ではしどろもどろ(汗)
助け舟を出すようにコーディネーターのクランド君がとても詩的な説明をしてくれました。
「私達日本人は、空にも風にも雲にも海にも太陽にも大地にも何かを感じて暮らしている、、
それは大きな力であり存在であり敬いものであると理解しています。」
と、、、、

お=!お=!お=!ぱちぱちぱち!!!
(私自身そこまでの美的哲学は持っていないので少々の胸の痛みを感じながらも、、)


そうですね、、そうなんですね、、




なのに汚してしまいましたね。
ここでもう一度噛み締めなければなりませんね。
私達の過ちを。
「私達日本人は、空にも風にも雲にも海にも太陽にも大地にも何かを感じて暮らしている、、」
もう一度、自分自身とそれぞれが自分自身と話し合わなければいけませんね。



私はご存知スポコンです!!(笑)
ゴールを目指して走り続けるのは得意です。
ただし、目的が見えなかったり行く先が見えなくなると
とたんに平行感覚を失います。
今、この国は目的も行き先も本当もウソも何にも見えなくなってしまいました。
バスクで見た巡礼道の黄色い矢印は、見落としてしまう可能性大の小さな目印でした。
巡礼者にはあたかも誰かに仕組まれたようにその目印が見つからない時があると言います。
あたかも仕組まれたように、、、
と話すのは『後々考えれば、見失った事は大いに意味のあった事』だからの様です。
矢印が見つからなければ、自分に聞くしかないという事なのかもしれません。
情報が無いという事は、自分のイマジネーションをもっと膨らませる必要があるのかもしれません。
使われていなかった自分の力をもっと出さなければならないのでしょうし
恐怖と不安の究極の場所で静かに自分の声を聞けると云うチャンスなのかもしれません。
今の日本が『後々考えれば、見失った事は大いに意味のあった事』
と皆で言いあえる巡礼の途中である事を祈ります。
毎日ぐるぐる目の回る日々ですが
私はそれを信じたいと思います。
ここがスタートなのだと信じたいと思います。